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koichi_Ryujyaku 花鳥風月

小さき翼にて羽ばたかん

2008年10月13日 (月)

西暦2008年のオリンピック:「居心地のよい獄舎」の中で

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  昔語的五輪女子体操悲話:国家体育館に咲いた一輪の花(ガブリエラ・ドラゴイ選手) 

 その昔、ユーラシア大陸の東の果てに大きな国があった。はじめは殷、周などという国号がついていた。春秋・戦国という時代があり、秦王「」が初めてその国を統一し皇帝となった。これが秦の「始皇帝」である。この人物は、自分の大きな墓を作るために、多くの人を働かせた。「孔子」という優れた人物の書物を焼かせたりした。まさに絶大な権力を握り、意のままに人を動かした人物といえる。 

 秦帝国から漢帝国、隋・唐の両帝国を経て宋、世界帝国モンゴルから元帝国、明朝・清朝まで歴代の皇帝が広大な領土を支配していた。清朝は、「眠れる獅子」と呼ばれたが、最後は欧米諸国や日本などとの戦いに敗れるほど衰退した。清朝最後の皇帝溥儀はラストエンペラーと呼ばれた。 

 歴史は、繰り返すものだが、西暦1949年頃からこの国も秦帝国と同じような道をたどった。ただ「皇帝」という名前は使われなくなり、「国家主席」と呼ばれるようになった。中国共産党は「中華人民共和国」をつくり毛沢東国家主席の下で一党独裁政治を行った。 

 「共産主義国家」という個人の自由が認められない国で、目を覆うばかりの「人権の弾圧」や「少数民族の虐待」を隠しながらオリンピックの開催が可能であることを、見事にこの国は証明した。 

 

 『その昔、西暦2008年にこの国の首都で開催されたオリンピック、8月8日「鳥の巣」と呼ばれた「国家体育場」で開会式が行われた。「鳥の巣」を取り巻く大勢の武装警官装甲車に守られながら…。CGの花火国歌をうたう少女のすり替え、「少数民族の子供たちの行進」を漢民族の子供たちに「なりすまし」を行わせたことなど忘れられない思い出になっている。 

 また、女子体操競技における年齢詐称事件は国家レベルの操作でパスポート改竄が行われた。コマネチ選手の時代なら14才でもOKだった。もっともコマネチ選手自身は、年齢制限は撤廃すべきであるという意見を持っている。当然、共産主義国で生き残るためには、幼い頃から厳しいトレーニングをさせられ国家レベルの管理が必要であることは、彼女自身が身をもって体験してきたことだから…。このオリンピックは、中国の威信にかけても成功させなければならなかった。 

 それは、世界の大国「アメリカ合衆国」に金メダルの数で勝つことだった。それは、世界で一番強い国になったということを意味するのだ。 

 2008年に北京でオリンピックが開催されることが決まってから、北京市内在住の150万人を強制的に移住させた。その代わりに地方から建設関係の「民工」400万人を北京に動員し、オリンピック直前に同様に市内から退去させた。まるで始皇帝の陵墓を作ったときの再現である。 

 また、五輪開催に反対する勢力を完全に封じ込め、完璧なテロ対策を実施することが必要であった。そのために五輪を開催する場所は、保護区として徹底的に防御することにしたのだ。五輪関係者、選手団、報道関係者を一般の中国人と隔離すること、すなわち「居心地のよい獄舎」を提供したのだ。もちろん、厳重な監視付きである。報道関係者は、自分のPCをネットにつなぐことはできなかった。 

 このような状況の中で西暦2008年のオリンピックは、開催され、見事成功裏に閉会した。』

 

  Bijyo028_2 2008年の北京オリンピックでは、「アテネの団体王者ルーマニア女子体操チーム」は、五輪を経験していない6名の選手を出場させた

 サンドラ・イズバシャ、ステリアナ・ニストル、アナ・マリア・タマルジャン、アンドレーア・アカトリネイ、アンドレーア・グリゴレとガブリエラ・ドラゴイ選手の6名だった(リザーブは、ダニエラ・ドルンチャ選手)。

 このメンバーでルーマニア女子チームは見事銅メダルを獲得している。逆にロシアは、史上初の女子体操団体メダルなしに終わった。どちらかといえばチームワークが感じられずバラバラに競技を行ったように見えた。

 日本女子体操チームは、予想外(?)に健闘し5位入賞を果たしている。東京五輪3位の銅メダルには及ばないが、素晴らしい結果を残したといえる。個人プレーに走らず、チームのために戦った6名の選手に拍手を惜しまない。
      
 また、従来の「10点満点」の採点から「A得点とB得点の和」で採点する方法がとられるようになった。この新採点方式では、A得点が極端に高くなる段違い平行棒の得意な選手が有利になる。また、一番よくない点は、選手の肉体に与えるダメージが大きく、本来の美しい体操からはかけ離れたものになってしまうところだ。

Izbasa  種目別の決勝に残った8名の選手の点数を比べてみると、段違い平行棒では、6位までが16点台で、しかも6位が2007年のチャンピオン:クセニア・セメノワ選手(ロシア)であった。彼女の16.325は決して悪い点数ではないが、優勝した何 可欣選手は16.725であった。

 【※15才の鶴見選手(9月で16才になった)は、「何 可欣選手は、私より一つ年下のはずなのに、何故出場できるの?」と言ったそうだ。コマネチ選手の時代なら問題はなかっただろう。】

  次に有利と考えられるのは平均台であるが、優勝したアメリカのショーン・ジョンソン選手の得点は、16.225である。高難度な技を正確に美しく実施した。これは、平均台の最高レベルの得点である。段違い平行棒と比べると差がありすぎはしないか?

 床と跳馬は、優勝した選手の得点はいずれも15.650であった。これも段違い平行棒と比べると1点以上の差がある。

 床の優勝は、ルーマニアに唯一の金メダルをもたらしたサンドラ・イズバシャ選手である。体操王国ルーマニアの意地を見せた金メダルであった。

 基本的に床の競技は、A得点を上げにくい。ライン減点やタンブリングでは着地、ひねり系の技ではひねり不足など厳しく減点される。その中での15.650は素晴らしい。

 彼女は、この大会を通して、調子がよく気合いが入っていた。笑顔も、表彰台での涙も素晴らしかった。

 五星紅旗があがらなかった唯一の表彰台だった。左右に並んだショーン・ジョンソン選手とナスティア・リューキン選手らアメリカ勢を押さえて、一番高い表彰台に上ったのだ。ルーマニアの国旗を見上げ、国歌を口ずさみながら涙を見せたイズバシャ選手を忘れることはできない。

   

 Gabrieladragoiec011 種目別の決勝に残った他のルーマニアの選手は、ステリアナ・ニストル選手とガブリエラ・ドラゴイ選手の二人だった。アテネの時に比べると寂しい限りだが、団体銅メダルと種目別床の金メダルを獲得できのだ。よしとしておこう。

 ニストル選手は、怪我でほとんど練習ができない体で試合に臨んだ。よく頑張ったと思う。以前、このブログでも取り上げたが、
彼女は、1989年(平成元年)の9月15日生まれの18才である。2007年シュツットガルト世界選手権の個人総合銀メダリストである。

 この大会で、優勝したのが、ショーン・ジョンソン選手であった。

 リューキン選手はメダル圏外であった。このときの悔しさがオリンピック個人総合優勝を成し遂げさせたのかもしれない。北京では本当に魂のこもったすばらしい演技を見せてくれた。

 ドラゴイ選手は、得意の平均台で
15.625という高得点で種目別5位に入った。大健闘である。彼女は、1992年8月28日生まれの15才。競技終了後16才になった。

 彼女は、ルーマニアの首都ブカレストから東に200kmほどのところにあるブーザゥという都市で生まれている。ルーマニア平原の北方、トランシルバニア山脈の東麓にある静かな町だ。コーチは、ベルコーチの引退後を任されているニコラエ・フォーミントコーチである。

 彼女が真剣に 演技する姿を見ていると、控えめながら芯の強い性格が覗えた。
 
 優勝したショーン・ジョンソン選手のような正確さや大技は持たないが、閉ざされた獄舎の中で「清楚・可憐に咲いた」この五輪で一番の名花であった。


2008年6月 8日 (日)

Olga Korbut EverLasting :美しきベラルーシに生まれて(第2回)

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 第18回:オルガ・コルブト選手と二つのオリンピック第2回)

 1972年のミュンヘン大会のときの旧ソ連CCCP女子体操チームは、世界選手権リュブリャナ大会からミュンヘンオリンピックを挟んで世界選手権ヴァルナ大会まで個人総合3連覇を果たしたリュドミラ・ツリシチェワ選手を主将としタマラ・ラザコビッチ選手オルガ・コルブト選手を主力メンバーとしていた。団体総合で76点台をたたき出す力を持っていたのは、この3人だけだった。

 団体総合2位の旧東ドイツには、個人総合2位のカリン・ヤンツ選手とリュブリャナ大会個人総合2位のエリカ・ツフォルト選手の2名がいたが、やはり76点台をたたき出した。種目別では、跳馬と段違い平行棒でヤンツ選手が優勝している。また、2年後のヴァルナ大会で個人総合のメダルを獲得するアンジェリカ・ヘルマン選手も旧東ドイツのメンバーだった。
 
  GDR(旧東ドイツ)の名前は現在存在しない。GDRの名前が、女子体操史上初めて出てくるのはメキシコ大会くらいからで、ロッテルダム世界選手権とソウル五輪に出場したドルテ・テュムラー選手の独創的で美しい演技を最後に歴史から名前を消すのである。彼女はロッテルダムでドブレ、シリバシュ、サボー選手を擁するルーマニア勢とシュシュノワ、ボギンスカヤ選手らの旧ソ連勢を相手に、種目別の段違い平行棒で見事金メダルを獲得したのだ。テュムラー選手は、稀に見る謙虚で美しい少女であり、GDRの最後を飾るにふさわしい美しい演技を実施した。今はなきGDRも彼女たちの名前とともに人々の記憶に刻み込まれている。

 

10  オルガ・コルブト選手は、1955年5月16日にベラルーシのグロドノという町で生まれている。この町はポーランドとリトアニア両国に近い国境の町で、首都ミンスクから西に200kmほどの場所にある。一時期ポーランドに属していたこともあったようで、人口の40%はポーランド系の人たちだ。

 ベラルシアン・バレエなどの舞踏系の芸術もさかんである。さすが「白ロシア」と呼ばれていただけあって、ロシアに負けないスラブ系の重厚な文化的基盤を持っている。新体操の分野でも、ソウル五輪金メダリストのマリナ・ロバチ選手やシドニー五輪銀メダリストのユリア・ラスキナ選手など多くの逸材を輩出しており、私見ではロシアの新体操より芸術性が高く美しいと思っている。
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 コルブト選手は4人姉妹の末っ子で、小学校ではクラスで一番小さかったが運動神経は抜群で、小さな体にはち切れんばかりのエネルギーを蓄えた少女だったようだ。8歳の時から体操を始め、11歳のときベラルーシスポーツスクールに入り本格的な練習を始めた。最初は、東京オリンピックの団体金メダリスト、エレーナ・ヴォルチェトスカヤ選手について学んだ。1年後、彼女のヘッドコーチとなるRenald Knyshのグループにエレーナ・コーチとともに移動した。彼と組んでから、平均台上で後方宙返りができるようになった。また、彼は、コルブト選手に段違い平行棒で「コルブト宙返り」や「コルブト下り」を考案し練習させたのだ。

 Knyshコーチは、コルブト選手の才能を見抜き、育て上げた名コーチであった。しかし、ソ連邦崩壊後の1999年、コルブト選手はコーチのセクハラを暴露し、長い間「コーチの性的奴隷」であったことや、旧ソ連の女子体操界がいかに偽善・欺瞞・裏切りに満ちたものであったかをロシアの新聞社「プラウダ」(元ソ連共産党の機関誌)のインタビューで話している。

 当時の旧ソ連は、ブレジネフを頂点とする共産党独裁政権下にあり、個人の自由などなかった。KGB(秘密警察)の監視が厳しく密告が奨励される国だった。旧ソ連の国民の全ては、中央共産党の縮図=各地のミニ共産党に所属する縦社会のメンバーとされた。おそらく、帝政ロシア時代の農奴たちの方が、もっと自由を満喫していたに違いない。
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 右のモノクロの写真は、コルブト選手の横顔だが、一般のロシア女性よりも鼻筋のよく通った高い鼻をしていることがわかる。

 彼女は、この鼻のような「強い自負心」と旧ソ連ではさぞかし生きにくかったであろう「豊かな感情」を持っていた。コルブト選手は、元気がよく、饒舌でジェスチャーも多彩だった。みんなを笑わせるのが好きだったようだ。

 実はKGBの諜報員であった伴奏役のピアニストや通訳の「干渉や束縛」を許し難い侮辱と強く感じていたに違いない。事実、彼女はその反抗的な態度により出国制限を受けていた。


421feel1_2  左の写真は、ミュンヘン大会で、コルブト選手が個人総合のセカンドローテ・段違い平行棒の演技をした後の泣き顔である。彼女は大きな失敗をし7.50という低い得点しか出せなかったのだ。これで個人総合のメダルは消えたが、ミュンヘンの観衆は共産圏には珍しい「感情豊かな少女」をみて大いに同情した。

 しかし、彼女が本領を発揮したのはその後の種目別の演技の時であった。種目別の床と平均台で金メダル、段違い平行棒で銀メダルを獲得している。

 床では、旧ソ連が金銀銅のメダルを独占したが、大本命のツリシチェワ選手を押さえての金メダルは見事であった。

 しかし、ミュンヘンの観衆を最も驚かせたはずの段違い平行棒の演技は、GDRのカリン・ヤンツ選手のそれには敵わなかった。ヤンツ選手の演技は、正確で高い技術力を感じさせるものだった。美しさも十分だった。

 当時のGDRの段違い平行棒は世界最高レベルで、旧ソ連も打倒GDRを狙ったが、勝つことはできなかった。銀メダルもGDRのエリカ・ツフォルト選手とタイで獲得したものでGDRとの差はかなり大きかったといわざるを得ない。

 一番大きな敗因は、「コルブト宙返り」だった。アクロバティックな人目を引く演技だが、いったんバーの上に立たなくてはならない。そのとき、演技が一時止まる。技の連続性が途切れたこの部分が減点の対象になったのではないか。

 実際、その後この部分を改良した「新コルブト宙返り」を実施している。バーの上に立たずに宙返りをするために、逆手足裏支持で前方にバーを300度程回転したとき宙返りをすれば演技が途切れずにすむのである。これがミュンヘンの時に完成していたら金メダルに届いていたかもしれなかった。

 次回(第3回)は、モントリオールでのコルブト選手とコマネチ選手、キム選手などについて調べていきます。

2008年6月 3日 (火)

Olga Korbut EverLasting :美しきベラルーシに生まれて(第1回)

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 第17回:オルガ・コルブト選手と二つのオリンピック(第1回)

 ずいぶん昔の話だが、ロシア文学に「はまっていた」頃、帝政ロシア末期の貴族たちや庶民の生活や心情を描いた作品をよく読んだものだった。ドストエフスキーの『白痴』、『地下室の手記』やツルゲーネフの『片恋』、チェーホフの『犬を連れた奥さん』など、今でも不思議と心のなかによみがえってくることがある。

 『白痴』のムイシュキン公爵、『地下室の手記』の少女、『片恋』のアーシャなどが、生きている人のように語りかけてくる。帝国ロシアの「末期の叫び」のようでもあり、19世紀末を生きたロシアの人々に共通する心情の吐露だったのかもしれない。

 (※ 余談だが、作家アントン・チェーホフは、医者でもあったが、当時、不治の病であった結核に冒されていると知りながら、モスクワ大学医学部卒業後、単身シベリアを横断し、極東のサハリンへの大旅行を決行した。また、死の3年前に舞台女優のオリガ・クニッペルと結婚している。「ここではない、どこか」すなわち「希望に満ちた新しい生活」を求め続けた人だった。)

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ヨーロッパ諸国が第一次世界大戦のまっただ中であった1917年に起こったロシア革命。翌年、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世は革命勢力によって処刑された。このとき、ロシア帝国は滅亡したのだ。「マルクス・レーニン主義」という暴力革命を肯定する思想とロシア共産党により帝政ロシアは倒され、新しい権力闘争の時代に入った。また、この赤い波「共産主義」の拡大させ「世界革命」をめざす国際コミンテルンの活動も活発化した。この動きに対し資本主義諸国の懸念も大きく、日本も1918年にシベリア出兵を行っている。

 1922年「ソビエト社会主義共和国連邦」=「ソ連」が成立、その後、スターリンが実権を掌握するとソ連は共産党一党独裁政治の時代に入っていった。スターリン、フルシチョフ、ブレジネフと独裁政権が続いていく中、社会主義国の優越性を示すためにスポーツに力が入れられた。器械体操もその一つだった。ブレジネフが政権を掌握した1968年は、メキシコオリンピックが開催された年でもあり、チェコの民主化(プラハの春)を徹底的に弾圧した年でもあった。チェコのベラ・チャスラフスカ選手は、ソ連の許し難い弾圧に抗議を示す黒のレオタード」でオリンピックを戦ったのだ。

 

431suven1  オルガ・コルブト選手が出場したオリンピックは、その4年後の1972年のミュンヘン大会とナディア・コマネチが登場する1976年のモントリオールの大会だった。
 【※ これも余談だが、1972年のミュンヘン大会は、日本男子とってすばらしい大会となった。オリンピックと世界選手権で団体総合10連覇という偉業を成し遂げた日本だが、このミュンヘンの大会は、その強い日本にとっても忘れられない大会となった。団体総合優勝個人総合金銀銅のメダル独占、種目別では、平行棒と鉄棒でやはり金銀銅のメダルを独占したのだ。跳馬だけメダルなしに終わったが、体操競技だけで16個のメダルを獲得している。そのときのメンバーを紹介しておこう。加藤沢男(メキシコ・ミュンヘンオリンピックチャンピオン)、監物永三(リュブリャナ世界チャンピオン)、中山彰規(吊り輪オリンピック2大会連続チャンピオン、床・平行棒・吊り輪世界チャンピオン)、笠松茂(ヴァルナ世界チャンピオン)、塚原光男(鉄棒オリンピック2大会連続チャンピオン)…まさに最強のメンバーだった。】


041floor1_2ミュンヘンの恋人」と呼ばれ人気が爆発したオルガ・コルブト選手は、団体総合の金メダルと種目別の床と平均台の金メダルを獲得している。基本的に、旧ソ連はリュドミラ・ツリシチェワ選手が主力のチームで、2番手がタマラ・ラザコビッチ選手であった。この二人は、個人総合のメダルを獲得している。しかし、大本命のツリシチェワ選手を押さえて種目別の床でコルブト選手が金メダルを獲得できたことは素晴らしい。

 彼女は、その4年前のメキシコ大会で「メキシコの花嫁」と呼ばれたナタリア・クチンスカヤ選手と並んで大衆的な人気を集めた体操選手といえるだろう。同じ1972年の冬季オリンピック札幌大会で「札幌の恋人」と呼ばれたフィギュア・スケートのジャネット・リン選手と同じものを感じる。

 大衆を引きつける魅力、可愛らしさと演技の美しさ、彼女たちが最も輝いた時代だったのだ。ナタリア・クチンスカヤ選手からオルガ・コルブト選手、そしてナディア・コマネチ選手、アウレリア・ドブレ選手に引き継がれた「光り輝く演技」の流れはこの先誰が引き継ぐのであろうか。たとえ、だれも引き継ぐものがいなくても、彼女たちの演技は永遠のものである。朽ちることなく光り輝いているのだから…。

Olga EverLasting!!(第2回に続く)

2008年5月22日 (木)

ロッテルダムの奇跡:アウレリア・ドブレ選手(第2回)

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 第16回:ロッテルダムの奇跡(ルーマニア史上初の団体・個人総合優勝)

 1987年のロッテルダム世界選手権は、団体総合でルーマニアが優勝、個人総合でも弱冠14歳のアウレリア・ドブレ選手が金メダルを獲得した。

 かつて世界王者・旧ソ連が、団体総合と個人総合の二つのタイトルを他国に明け渡したのは、1966年のドルトムント世界選手権のときだけであった。団体総合をチェコスロバキアに、個人総合をチャスラフスカ選手に奪われたのだ。それ以来21年ぶりのことであった。

 旧ソ連は種目別でシュシュノワ選手が跳馬と床で金メダルを獲得したが、その二つだけであった。ルーマニアは、平均台でドブレ選手が、床と段違い平行棒でシリバシュ選手が金メダルを獲得したのである。最強のドリームチームが誕生したのだ。

 

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 一方の旧ソ連は、エレーナ・シュシュノワスベトラーナ・ボギンスカヤスベトラーナ・バイトワオクサナ・オメリヤンチクなど実力のある選手を送り込んでおり簡単に負けるはずはなかった。

 しかし、結果は、旧ソ連の完敗であった。

 種目別の床の決勝は、シュシュノワ、シリバシュ両選手の20点満点の同点優勝であった。非常にレベルの高いパーフェクト10を2回出しての同点優勝だった。

 これは、翌年に行われたソウルオリンピックでの二人の熾烈な戦いの前哨戦となった。

 ドブレ選手の床は19.950点で銅メダル、しかし、演技の美しさという点では二人の金メダリストと比較しても遜色はない、というより別格であった。

 いくら技の難度が高くても美しくなければ意味がないと思っている。

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 ロッテルダムの10年前のストラスブール世界選手権で、エレナ・ムヒナ選手は、 その当時では最高難度の技を入れた床の演技を行ったが、何よりも人の心を打つ美しさがあった。だから、いくら時代が変わろうともその演技は人々の心の中で生き続けるのだ。

 (※話が少しそれるが、1985年のモントリオール世界選手権では、シュシュノワ選手とオメリヤンチク選手は個人総合で同点優勝した。

 床の演技では、僅差ながらオメリヤンチク選手が美しい演技で優勝している。彼女の個性を活かした振り付けと音楽、床の対角線を利用した往復タンブリング、美しいバレエのステップ・ターン・ジャンプが見事に決まった演技だった。そのときのオメリヤンチク選手の笑顔はすばらしかった。

 しかし、ロッテルダムではより難度の高い技を連続して出せる選手でなければ通用しなかった。事実、彼女の演技は精彩を欠き苦しげであった。ソウルでは補欠に回った。

 彼女がもっとも輝いていたモントリオールは記憶の中に大事にしまっておこう。)

 

Dobre6_2  ロッテルダムでのアウレリア・ドブレ選手の演技は、盟友のシリバシュ選手よりも、翌年のソウルオリンピックチャンピオンになるシュシュノワ選手よりも優れた類い稀な才能を感じさせるものだった。

 ナディア・コマネチ選手が観衆の前に初めて姿を現し10点満点を連発したときのような衝撃すら与えたのだ。ある意味彼女の演技はそのとき「神の領域」に入っていたのかもしれない。

 種目別の床の金メダルストたちは「技の天才」と呼べるかもしれないが、それを遙かに超える美しさを持っていた。それを表現できるのは「神」しかいないのではないか。

 ひょっとすると「体操の神様」が14歳の少女の体を借りて「天上の美」を表現されたのかもしれない。

 東欧の社会主義国の過酷な環境の中で、日々努力している体操選手に示された「神の愛」だったのかもしれない…。

 アウレリア・ドブレ選手は、ロッテルダムの世界選手権後、右膝の怪我で4度の手術をした。

 翌年のソウルオリンピックにルーマニアのメンバーとして参加したが目立った活躍はできなかった。

 しかし、彼女の演技は技の難度を落としたものであったが、完璧で美しかった。傷ついた右膝の故障を感じさせないもので、体操選手として忘れてはならない「何か」を示したのだ。これは審判には評価できないものであった。

 

 彼女は、1972年11月16日ブカレストで誕生した。14歳で世界チャンピオンになり、その後右膝の負傷で手術を受けるも世界の舞台に復帰できなかった。

 ルーマニア革命の影響で1990年所属していたディバ国立体操専門学校が一時閉鎖されることになった。このときドブレ選手は親友のシリバシュ選手とともに引退している。18歳の時のことである。

 翌年、アメリカに移住した。新天地で恋愛し、20歳の時に結婚している。現在では、4人の男の子の母親になっていると聞いている。

 

 なんと幸せな話ではないか。ロッテルダムの世界選手権でルーマニア史上初めての世界チャンピオンになった上に後世にまで残る素晴らしい演技ができたのだ。

 人類にとって奇跡というべき輝かしい演技神に愛された少女ドブレだからこそできた演技、決して忘れることはないだろう。

 また、彼女にとって体操は一つの通過点だった。今、人間として、女として、母親としての幸せをかみしめているのだから…。

 

2008年5月 3日 (土)

伝説の美少女☆オレシア・ドュドニク選手:CCCPの少女たち(第2回)

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  第15回:オレシア・ドュドニク選手の2年間 

 1988年のソウルオリンピックに出場した旧ソ連の女子体操チームは、シュシュノワ選手をはじめ、バイトワ選手、ボギンスカヤ選手、ラシェノワ選手、およびストラジェワ選手など強力なメンバーで構成されていた。モントリオール世界チャンピオンのオメリヤンチク選手がリザーブメンバーに入っていたことからもわかるように、現在のロシアチームと比較できないくらい有力選手の層が厚かった。

 しかし、このオリンピックでは、旧ソ連は団体総合優勝、シュシュノワ選手が個人総合優勝、跳馬でボギンスカヤ選手が優勝したが、種目別ではルーマニアのシリバシュ選手が跳馬以外で全て金メダルを独占した。シュシュノワVSシリバシュ、両選手が熱い戦いを交わしたオリンピックだともいえる。

Ndxh12ov  (※ 余談ながら、ソウルオリンピックで「もし」がゆるされるなら、練習中の怪我で4回も膝の手術をしなければ、アウレリア・ドブレ選手の活躍する姿をみることができたかもしれなかった。

 彼女は、親友のシリバシュ選手の演技をどんな思いでみていたのであろうか。つらかったに違いない。

 また、オクサナ・オメリヤンチク選手の繊細で美しい演技をみることができなかったことも非常に残念であった。

 この二人が欠けたオリンピックは、シュシュノワVSシリバシュ両選手のエネルギッシュでパワフルな競演という印象しかない。私見ながら、両選手の演技は高レベルで完成度は非常に高かった。しかし、何かが足りないと感じたのだ。できることならもっと美しさを追求した演技を見たかった。)

 

Dudnik7  オレシア・ドュドニク選手は、1974年の8月15日生まれだから、ソウルオリンピックが行われた1988年は、まだ14歳のジュニアの選手であった。

 この美しい、真剣な表情をした少女は、この年旧ソ連のジュニア選手権の個人総合で優勝している。

 いまだにネット上では、女子体操史上No.1の美少女であったという書き込みが多く見られるが、まことにその通りだ。 

 ただ、普通の美少女ではなく競技中は笑顔を見せることがなく、真剣に演技に集中していた。むしろ短い体操選手としての期間を「真剣に生きた」美しい少女だったのだ。

 翌年の1989年のシュツットガルト世界選手権でオレシア・ドュドニク選手は15歳で世界デビューを果たした。

 旧ソ連は、団体総合で優勝、個人総合も金銀銅メダルを独占した。ボギンスカヤ選手が金、ラシェノワ選手が銀、ストラジェワ選手が銅であった。

 ドュドニク選手は、個人総合枠のなかに入れてもらえたなら、必ずメダルを手にしたことであろう。実際、種目別では、跳馬で金メダル、平均台で銀メダルを獲得したのだ。

 彼女の跳馬の演技は、非常に美しくかつ高い運動能力を感じさせる。ユルチェンコ2回ひねりも雄大でしかも優雅ですらあった。採点法が変わったにもかかわらずパーフェクト10は計4回出している。

 彼女の演技の特徴は、難度の高い技を組み合わせ、真剣に真っ向から攻めていくところだ。平均台の終末技の3回ひねりの着地で失敗したにも関わらず、演技構成のレベルが高く台上での失敗がなかったため審判が高い得点を出し、銀メダルを獲得している。床は、4位の成績であったが、演技内容はすばらしくメダリストの演技に比べても遜色のないものであった。下の動画は、オレシア・ドュドニク選手の演技の総集編である。じっくり見ていただきたい。

      http://www.youtube.com/watch.php?v=gNu5QaRgJ4Q  

 

(※話はまたそれるが、ナタリア・ラシェノワ選手は、旧ソ連の選手だが、出身はラトビア共和国である。バルト三国といえばエストニア・ラトビア・リトアニアのことを指すが、昔からロシアが大嫌いでソ連邦が解体したときEUN=独立国家共同体の中には当然入らなかった。

 しかし、祖国ラトビアは独立したものの、体操選手ナタリア・ラシェノワにとってはオリンピックに参加する資格を剥奪されることになったのである。1991年、彼女はバルセロナオリンピックに出場できないとわかると引退した。 

彼女の演技はダイナミックで、特に床の演技でのタンブリングの切れ味の鋭さやスピード感はすばらしかった。それでいて柔らかく優雅なところもあった。好きな選手の一人だっただけに残念であった。)


 
Dudnik4  オレシア・ドュドニク選手は、1989年に世界デビューし、跳馬の世界チャンピオンになった。

 彼女の持っている技術・表現力は誰が見てもわかるくらい優れていた。当然、1990年は彼女が最も期待される年になるはずであったが、右足の怪我が悪化していたのだ。上の動画で見ていただくとよくわかるが、彼女が右足に白い包帯を巻いて演技している試合がある。 

 これが全てだった。結局、十分な結果を出すことができずに終わってしまった。休息し、リハビリを続けたが決して元のレベルに戻ることはなかった。そして、そのまま誰にも知られることなく静かに引退したのだ。あまりにも短い2年間だった。

 もし、怪我がなかったらどれだけすばらしい選手になっていたのだろうか。彼女やエレナ・ムヒナ選手、アウレリア・ドブレ選手、シルビア・ミトバ選手など…輝くばかりの才能を与えながら、何故、神は続けることを許し給わなかったのか。


Dudnik3  1986年のチェルノブイリ原発の事故は今日でもウクライナのみならず近隣諸国に深刻な放射能汚染を与え続けている

 オレシア・ドュドニク選手のふるさとはウクライナ共和国だ。首都キエフの北方にあるこの原発の事故のため両親を二人ともなくしている。最後は、彼女が付きっきりで看病したと聞いている。

 オメリヤンチク選手もウクライナの出身だが、彼女の弟も原発事故の被害者となった。日本で失われた視力を回復する手術を受けたが、あまり改善されなかったと聞いている。その後、どうしているのだろうか。彼に限らず、多くの人がいまだに苦しみ続けている

 また、オレシア・ドュドニク選手は、ウクライナ出身のレスラーである夫にも2004年に先立たれた。幸い一人の息子を授かっていると聞く。現在、エジプトに在住し、体操を教えているようだ。

 ナタリヤ・クチンスカヤ選手は、引退後、日本の大阪で体操を教えていたことは事実だが、ドュドニク選手が一時期日本にいるという噂が流れていたことがあったが、本当はどうだったのだろうか。

 オレシア…あなたの演技は、2年間という短い期間しか見ることができなかったけれど、夏の夜空に輝く花火のように美しいものだった。いまでも心に焼き付いてはなれない。ありがとう。これからも、いろいろ大変なことがあるかもしれないが元気な姿をまた見せてほしい。 

 あなたはどこにいようと真剣に生きていく人だから…。

2008年4月 9日 (水)

エレナに捧げるレクイエム:CCCPの少女たち

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 第14回:コマネチやコルブトを超えたエレナ・ムヒナ選手

 エレナ・ムヒナ選手は、1960年6月1日モスクワに生まれた。彼女が5歳になる前に父親は姿を消し、母親は他界した。孤児となったエレナを祖母アンナが育てた。彼女はその後モスクワにあるCSKA(ツェスカ:中央赤軍スポーツクラブ)に入り器械体操の訓練を始めた。15歳までは目立たない存在だったが、ミハイル・クリメンココーチと組んでからはめきめきと力をつけた。そして、1978年のストラスブール世界選手権でチャンピオンとなった。18歳の時であった。そのとき個人総合の2位はネリー・キム選手、3位はナタリア・シャポシュニコワ選手でいずれも旧ソ連CCCPの少女たちであった。

   

Mukhina12  もちろん団体総合は、金メダル。跳馬でキム選手が、床はムヒナ選手とキム選手が、タイで金メダルを獲得している。

 1976年のコマネチ選手の出現に対抗し旧ソ連では秘密兵器を育てていた。

 もちろん、エレナ・ムヒナ選手である。段違い平行棒では、コルブト宙返りの1回ひねりを見事に成功させ、終末技は低棒から飛び出すときに危険な後方2回宙返りを入れていた。平均台や床の終末技に完璧な後方2回抱え込み宙返りを入れ、床で女子で初めてのムーンサルト(ムヒナ)を成功させていた。

 今思えばはるかにコマネチ選手を超える領域に達していたに違いない。

 

Muhina01132008140637uym  しかし、ムヒナ選手は、1979年のフォートワース世界選手権の前に足を骨折し出場することができなかった。

 この大会で初めて旧ソ連はルーマニアに団体総合王者の座を明け渡した。

1980年のモスクワオリンピックの2週間前、足の怪我が治りきっていないにも関わらず、クリメンココーチはムヒナ選手に練習をさせていた。

 もちろん「優勝しなければならない」からである。

しかし、このとき恐ろしいことが起こったのである。

 練習中の事故でムヒナ選手は、もう二度と体操をすることはおろか、一人では生きていくことができない体になったのだ。

 このことに関しては、彼女のドキュメンタリー「More Than A Game」の中で詳しく報告されている。

 彼女はわずかな期間我々の前に姿を現し、すぐに我々の前から姿を消してしまった。「無垢な魂」を持つものだけが許される美しい演技を我々の心の中に残して…。彼女は大好きな体操の技を徹底的に追求したかったに違いない。だが、それが体操選手生命を奪い去ってしまうことになったのだ。

 1978年のストラスブール世界選手権個人総合ファイナルの床の演技は、素晴らしいものだった。ムーンサルトやフィニッシュの後方抱え込み2回宙返りの着地も見事に決まったが、それよりもピアノの伴奏とシンクロナイズした美しい振り付け、ムヒナ選手の「命の息吹」が感じられる表情や手足の動きは忘れることができない。

 


Muhina15   彼女は2006年12月22日永遠の眠りについた。46歳であった。

 体の自由を奪われて、自分一人では何もできない26年の歳月の中で何を思い、考え、夢見ていたのであろうか。(彼女は深い信仰を持っており、馬とアニメが大好きだった。)

 体操選手は、労多くして実りが少ない。現役で活躍できる期間も短い。

 なのになぜ彼女たちは命の危険を冒してまで体操を続けるのだろう。

 思うに一瞬の美しさをこの世に示すために命をかけて戦っているのだろう。

 大好きな体操のために…、応援する我々のために…、少なくない選手が大怪我をし、選手生命を全うすることができなかった。

 アウレリア・ドブレ選手、シルビア・ミトバ選手、オレシア・ドュドニク選手など思い出に残る名選手がたくさんいる。

 彼女たちの努力に感謝したい。

 ありがとう。感動を与えてくれて…。

 エレナ、今もあなたは人々の心の中で生き続けている。


2008年3月26日 (水)

ベラとナタリアのオリンピック:「プラハの春」の中で

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 第13回:メキシコ・オリンピックのベラとナタリア

 

 ベラ・チャスラフスカ選手(旧チェコスロバキア)は、1964年の東京大会に続き1968年のメキシコ大会でも個人総合優勝を成し遂げた。 

 1966年のドルトムント世界選手権でチャスラフスカ選手の強力なライバルとして登場したのが、ナタリア・クチンスカヤ選手(旧ソ連)である。個人総合では、チャスラフスカ選手が僅差で優勝したが、存在を十分に意識させるデビューとなった。

 ナタリア・クチンスカヤ選手は1949年3月12日にロシアのサンクト・ペテルブルグ(当時はレニングラード)で生まれている。彼女の世界デビューは17歳の時のドルトムント世界選手権であった。この時、段違い平行棒、平均台、床の3種目で優勝している。個人総合ではチャスラフスカ選手にわずかに及ばず銀メダルに終わっている。

 (※ 余談だが、この大会で旧ソ連は、団体総合と個人総合の二つの金メダルをチェコスロバキアに奪われている。1952年のヘルシンキ大会から続いている団体総合の連覇を初めて阻止された大会となった。

 日本女子体操選手団はプラハ世界選手権から3大会連続の銅メダルチームとなった。最近の日本の女子体操チームのレベルからは想像できないが、このドルトムント大会では、段違い平行棒で日本は銀・銅メダルを獲得している。銀メダルの池田敬子選手は、ローマ世界選手権で、日本女子としては空前絶後の種目別・平均台金メダルに輝いた。今のところ、日本女子体操界唯一の世界チャンピオンである。)

 当時のチャスラフスカ選手は実力・人気とも世界一であったから、クチンスカヤ選手の登場は相当なショックを与えたはずである。

 

Csjp_grw  この写真は、メキシコオリンピックの種目別で唯一ナタリア・クチンスカヤ選手が金メダルを獲得した平均台の演技である。

 その他の種目は、全てチャスラフスカ選手が優勝している。

 しかし、旧ソ連の選手たちは、オリンピックの直前に行われた旧ソ連軍の「チェコ侵攻」で世界中の非難を浴びながら演技を行わなければならなかったのである。

 観衆は皆、旧ソ連の選手にブーイング、チェコのチャスラフスカ選手に深く同情し応援していた。

 旧ソ連の選手たちは祖国が行った非人道的行為を知ってつらい思いをしただろう。しかし、クチンスカヤ選手はどんなにブーイングを浴びても笑顔のままで、その表情は素直で美しかった。

 彼女は、旧ソ連の選手ではあったが、それを超えて世界の人々の心を掴むことができたのだ。クチンスカヤ選手の言葉を借りると「私は、ベラに対して親友のような気持ちで接していたが、メキシコ大会の時、世界的な事情もあり口もきいてもらえなかったので、とても、悲しかった。」「私はベラを非常に尊敬していました。」…悲しい気持ちが伝わってくる。

 

Zczltu26_3  ベラ・チャスラフスカ選手は1942年5月3日チェコスロバキアのプラハで誕生している。

 彼女は、1966年の世界チャンピオンであり、オリンピック個人総合2連覇の優れた体操選手であることは、東京・メキシコ両オリンピックを見ることのできた世代の方は皆知っているはずだ。 

 それほど人気のある選手であった。優雅で気品があり、なにより美しかった。

 彼女は、オリンピックだけで、7個の金メダルと4個の銀メダルを獲得してる。他に、世界選手権やヨーロッパ選手権でも多くのメダルを手にしている。

 しかし、体操選手としてではなくベラ・チャスラフスカは、一人の人間として正義を全うした、そのことによって彼女は世界中の人々に知られ愛されるようになったのだ。メキシコオリンピック直前に「プラハの春」は終焉し、1989年のビロード革命まで彼女は苦難の時代を過ごすことになるのだ。


6_t3ajes_2    1968年1月チェコスロバキア共産党第1書記にドプチェクが就任してから「プラハの春」が始まった。独裁政治を終わらせ、チェコに自由を復活させる運動だった。 

 6月に自由化の決議書である「二千語宣言」が出され、ベラ・チャスラフスカ選手も署名した。これが後に彼女が苦境に陥れられる原因となった。

 その年の8月20日、旧ソ連軍の戦車がプラハの町を蹂躙し、ドプチェクを捕らえたのだ。

 もちろん、チェコの自由化を徹底的に破壊するためだった。 

 チャスラフスカ選手は危険を避けるために森に隠れ密かに練習を続けた。

 ギリギリになってオリンピック出場が許可されメキシコに向かった。精神・身体とも極限の状態での出場だった。彼女は、旧ソ連軍の非人道的行為に対する抗議の気持ちを示すため、「黒のレオタード」でオリンピックを戦ったのだ。

 彼女は、種目別の決勝の日、唯一銀メダルだった平均台の表彰台に上って旧ソ連の赤い国旗から目を背け、クチンスカヤ選手の横でじっと立っていた。

 そのときのチャスラフスカ選手の気持ちは我々平和ぼけの日本人にはとうていわからない世界だと思っている。その後チェコの当局から「二千語宣言」の署名撤回を求められたが、彼女は頑として受け入れなかったのである。

 それから公私ともに長い苦しみの期間があった。ここでは、とても書ききれないくらいだが…。

 その後のチャスラフスカ選手について、また改めて書いていきたい。

2008年3月21日 (金)

オリンピック個人総合2連覇の天才を救った1枚の銀メダル

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 第12回:金メダル8個を手にした男  加藤沢男選手

 加藤沢男選手は、メキシコ大会からオリンピック3大会連続出場、メキシコとミュンヘンでは団体総合と個人総合の両方で優勝した。

 上の写真は、1972年のミュンヘン大会の個人総合で日本がメダルを独占したときの写真である。金メダルは加藤沢男選手で、銀メダルは監物永三選手、銅メダルは中山彰規選手であった。他にも鉄棒と平行棒で日本は金銀銅のメダルを独占している。

 体操王国日本の全盛期で、あまりにも日本は強すぎた。このためルールの改正が行われ、次のモントリオール大会から1カ国から決勝進出できる人数制限が行われることになった。個人総合では3人、種目別では2人だけが出場できることになった。

 女子の体操では、オルガ・コルブト選手が大人気の大会で、彼女は「ミュンヘンの恋人」と呼ばれた。コルブト宙返り、コルブトバランス、コルブト下り…これらのコルブトの演技とともに新しい女子器械体操の時代が始まったと言っても過言ではない。

 一方、アラブ系のテロリスト集団「ブラックセプテンバー」によるイスラエル選手団の殺戮という悲惨な事件が起こったオリンピックでもあった。これは、映画「ミュンヘン」に詳しく描かれている。

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 加藤選手が最後に出場したモントリオール大会では、日本チームにいろいろなアクシデントがあった。

 まず、6人のメンバーのうち、ヴァルナ世界選手権の個人総合チャンピオン笠松茂選手が盲腸炎のため欠場、リザーブメンバーの五十嵐久人選手が出場した。

 競技の途中で藤本俊選手が膝の半月板を痛め演技を続行することが不可能になった。

 残りの5人でノーミスの演技をしなければ優勝はなくなる。旧ソ連に規定演技でリードされた日本は少しずつ差を縮めていき最後の演技鉄棒で最終演技者の塚原光男選手がムーンサルト(月面宙返り)を決め、わずか0.40の差で旧ソ連に競り勝ったのだ。

 ローマ大会から続いている団体総合優勝の5連覇という偉業を達成した。世界選手権も含めるとストラスブール大会まで団体総合優勝の10連覇を達成したことになる。

 

 個人総合は、東京大会で遠藤幸雄選手が優勝しているので日本人による3連覇はミュンヘン大会ですでに達成していた。

 問題は、史上初の同一個人による個人総合3連覇がモントリオール大会で達成されるかどうかであった。

 加藤選手が個人総合優勝すれば、史上初のオリンピック3連覇であった。オリンピック2連覇ですら旧ソ連のチュカリン選手と加藤選手の二人しか達成していない。

 個人総合は、旧ソ連の若きエース、アンドリアノフ選手との一騎打ちだった。結果は大差で加藤選手の敗北に終わった。個人総合で初めての銀メダル。加藤選手自身の言葉をお借りすると「銀メダルを取って初めて敗者の気持ちがわかった。金メダルだけの人生ほど怖いものはない。自分の人生を変えた貴重な銀メダルだった。」

 加藤選手は現在、筑波大学大学院の教授で、アテネオリンピックの時は審判としてお姿を拝見させていただいた。凡人の私など足下にも及ばない人物なのだが…

 しかし、なんと謙虚で素直な言葉なのであろうか。胸にぐっとくるではないか…。

2008年3月16日 (日)

二十世紀最後のオリンピック:「アンドレーアの金メダル」

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第11回:アンドレーア・ラドゥカン選手の金メダル

 2000年のシドニー・オリンピックに出場したルーマニアの女子体操チームは、団体総合優勝個人総合で金・銀・銅メダルを独占した。ルーマニアチームのメンバーはマリア・オラルー、クラウディア・プレサカン、シモナ・アマナール、ロレダナ・ボボック、アンドレーア・イサレスク、そしてアンドレーア・ラドゥカン選手の6名だった。ルーマニアは、宿敵ロシアを下し、念願だった団体総合優勝を飾った。

 (※ 余談になるが、この中で個人総合に進めるのは3名、アトランタ大会に続き、アマナール選手が連続出場、オラルー選手と16才のラドゥカン選手が選ばれた。前回のアトランタでは、本当は、アレクサンドラ・マリネスク選手が個人総合に進めるはずだったが、ベルコーチの意向でアマナール選手が出場することになった。理由は、「アマナール選手の方がよく練習する」というものだった。

 旧ソ連チームでは、この手の話はよくあった。1985年のモントリオール世界選手権でシュシュノワ選手とオメリヤンチク選手を個人総合に出すために、イリナ・バラクサノワ選手オルガ・モステパノワ選手が涙を飲んだのだ。しかし、いずれの場合も交代した選手が金メダルを取ることになるのは、不思議なことだ。)

 しかし、個人総合では、メダルを独占したはずのルーマニアだったが、ラドゥカン選手の尿から禁止薬物の興奮剤プソイドエフェドリンが検出され、ドーピングと判定、金メダルを剥奪された。 

 写真でもわかるようにラドゥカン選手の体は他の選手比べて小さく、他のルーマニアの選手と同様に風邪薬を飲んだだけであったが、ドーピングの検査のとき分解されず体内に残っていたのだ。

 

13  今でも、あのときのことを考えると金メダルはラドゥカン選手のものであり、体操選手に何のメリットもない興奮剤しかも風邪薬に普通に含まれているプソイドエフェドリンが検出されただけで、金メダルを剥奪すべきではなかった。 

 まったく、ドーピングとは縁のない行為ではなかったのか。実際、プソイドエフェドリンは、国際体操連盟の禁止薬物リストの中には入っていない。

 繰り上げ1位になったシモナ・アマナール選手は、金メダルはルーマニアの代表として受け取ったもののラドゥカン選手に返している。しかし、公式記録としてはシドニーのチャンピオンは、アマナール選手なのである。強運な人ではある。

 心ある人はシドニーのチャンピオンアンドレア・ラドゥカン選手であるとわかっているのだ。これでいいのではないか?

 これは、柔道でも同じような場面があった。男子100kg超級の篠原選手がフランスのドゥイエ選手に一本勝ちしたことは誰の目にも明らかだったが、ニュージーランドの審判が逆にドゥイエ選手の方に有効を与え、結局、篠原選手が銀メダルに終わった。

 その状況を直接見ていたものの気持ちに似ているかもしれない。

 しかし、篠原選手は「負けたのは自分が弱かったからだ」と少しも審判を責めなかった。この審判は、後に永久追放処分を受けたと聞いている。真実は、神と目撃したものが知っている。

  アレクサンドラ・マリネスク選手

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左端がオルガ・モステパノワ選手

右から2番目が、イリナ・バラクサノワ選手

モステパノワ選手もバラクサノワ選手も、床の演技はとても素晴らしかった。

これは、本当の話である。

2008年3月 9日 (日)

シュツットガルトのメダリストたち

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 第10回:2007年シュツットガルト世界選手権大会

 女子の器械体操では、1952年のヘルシンキ大会から旧ソ連がオリンピック8連覇を成し遂げている。

 旧ソ連のオリンピック連覇にストップをかけたのは、アメリカとルーマニアであった。1984年のロサンゼルス大会の時、旧ソ連は出場しなかった。旧ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議し、1980年のモスクワ大会に出場しなかったアメリカなどの西側諸国に対する報復措置である。 

Ardtmrbz  このロサンゼルス大会では、ルーマニアが団体総合優勝した。アメリカは銀メダルだった。しかし、個人総合では、アメリカのメアリー・ルー・レットン選手が優勝、ルーマニアのエカテリーナ・サボー選手が銀メダルだった。二人の優勝争いは、凄まじいものだったが、レットン選手に指示を出し続けたコーチの存在が大きかった。

 左の写真は、種目別の平均台で同点優勝したサボー選手とシモーナ・ポーカ選手である。なぜかサボー選手はうつむいて表彰台に立っている。

 このロサンゼルス大会は、ルーマニアから亡命した(コマネチ選手などを育てた)ベラ・カローリーコーチがアメリカ選手団のコーチだった。カローリーコーチが育てた選手同士が戦ったオリンピックだったともいえる。サボー選手の世代は、皆、カローリーコーチの教えを受けている。また、コマネチ選手自身も審判として参加している。

( ※話がそれてしまうが、サボー選手は、1966年1月22日生まれの水瓶座、レットン選手は1968年1月24日生まれのやはり水瓶座である。水瓶座の体操選手は、かなりの少数派だが、少数派同士の優勝争いはもっと希少である。ロサンゼルス大会の20年後のアテネ大会でアメリカに個人総合の金メダルをもたらしたカーリー・パターソン選手はレットン選手の再来といわれたが、彼女も1988年2月4日生まれの水瓶座である。少し不思議な現象である。)

 この大会では、ルーマニアの選手はなかなか良い選手を揃えていた。サボー選手やポーカ選手の他に、ラビニア・アガケ選手ローラ・クチナ選手がいたのだ。

 1991年にソ連邦が解体され、ロシアと11の独立国家の共同体が生まれた。もちろん、バルト3国(エストニア・ラトビア・リトアニア)はその中に含まれない。不思議なことにロシアになってから団体総合や個人総合のオリンピック・チャンピオンは出ていない。と言ってもアトランタ、シドニー、アテネの3大会だけであるが…。しかし、旧ソ連時代の名選手は、ロシア以外のウクライナ(タチアナ・リセンコ選手、オクサナ・オメリヤンチク選手、タチアナ・グツー選手、オレシア・ドュドニク選手など)、ベラルーシ(オルガ・コルブト選手、スベトラーナ・ボギンスカヤ選手、スベトラーナ・バイトワ選手、エレーナ・ピスクン選手など)あたりの出身が多いような気がする。

    (個人総合優勝:ショーン・ジョンソン選手)                                
C1hiazcx_4  

 レットン選手の優勝のことはいろいろ批判もあるが今のアメリカの女子体操界を盛り上げる起爆剤になったことは確かだ。アトランタ大会のアメリカの団体優勝も然り。この二つのことがなかったら、パターソン選手は存在し得なかったし、シュツットガルト世界選手権でのショーン・ジョンソン選手の個人総合優勝もなかっただろう。チェルシー・メメル選手アナスティア・リューキン選手の活躍も見られなかったかもしれない。それほど、レットン選手の優勝はアメリカに勇気を与えたのだといえる。

 2007年シュツットガルト世界選手権大会の個人総合のメダリストのなかにロシアの選手はいなかった。最近は、女子体操選手の世代交代が激しく名前も知らない選手がいつの間にか登場し活躍している。今年の北京オリンピックで注目したいのは、アメリカとルーマニア、そして最近力をつけているヨーロッパ勢である。中国はもちろん優勝をねらってくるだろう。ロシアが力をつけるのには、もう少し時間がかかる。日本の女子もかなりレベルを上げており、世界に通用する選手も出てきている。東京オリンピック以来の団体総合メダルを期待したいがどうだろうか。

 次は、ベラ・チャスラフスカ選手について調べていきます。

2008年3月 3日 (月)

運命の1989年:「戦う天使」ナディア・コマネチ(その2)

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 第9回:ナディア・コマネチ:運命の1989年その2)

Londonex77  コマネチ選手の体操選手としての全盛時代は1976年のモントリオール・オリンピックのときであったことは、前回ふれた。

 オリンピック史上初の10点満点を7回出した天才少女であったが、祖国ルーマニアでは決して幸せではなかっただろう。

 その当時のルーマニアは、チャウセスクの独裁政権下で個人の自由が認められない国だった。ゴールド・メダリストとして特権階級の仲間入りをさせてもらったものの、独裁者の私物であることに変わりはなかった。

 東西冷戦時代のヨーロッパの東側諸国はほとんどがスラブ系民族で、ルーマニアだけがラテン系民族だ(東ドイツはゲルマン系)。「ローマ人の国」という意味をもつルーマニアは、ロシアやウクライナのスラブ系の重厚な雰囲気ではなく、陽気で明るく地中海の香りがどこかに感じられる

 しかし、ナディア・コマネチの体操はルーマニアで育ったが、いつのまにか彼女自身のもつ才能と強烈な意志の力によって誰にもまねることのできない独創的な世界を作り上げたのだ。


 

Cit76_062c  コマネチ選手にとって1989年(平成元年)は特別な意味を持つ。

 彼女がその年の11月22日に自由を求めて祖国ルーマニアを脱出、亡命した。「亡命」=「残された家族の死」を意味することを十分知りながら…。

 彼女の肉親である実の弟から亡命を勧められたのだ。ルーマニアなどの独裁国家から亡命することは、後に残された家族に想像を絶する苦しみを与えることになる。最終的には、死が待ち受けているのだ。

 ちょうどそのころ、東ドイツではベルリンの壁が破壊されていた。(翌1990年東西ドイツは統一される。)

 コマネチがハンガリーから命がけでオーストリアに脱出、アメリカに特別機で旅立ったのは10日後の12月1日だった。

 その年の12月といえば米ソの首脳が地中海のマルタ島沖で「マルタ会談」を行い「冷戦の終結」の確認をした。ゴルバチョフとブッシュの二人だった。

 その後、ルーマニアでクーデターが起こり、長年の独裁者であったチャウセスクが捕らえられ12月25日処刑された。これはコマネチがアメリカに亡命した1ヶ月後の話である。コマネチの家族は、奇跡的に「死の運命」から解放されたのだ。

 



76wavecrowd4  ナディア・コマネチは、1961年11月12日にルーマニアのオネスティで誕生している。現在、46才である。

 彼女は6歳の時ルーマニアの秘密兵器となるべく体操学校に集められた26名の少女たちの一人になった。

 彼女が世界的に有名な体操選手になったのは、1976年のモントリオール・オリンピックの時である。そのときは彼女はわずか14才でオリンピック史上初の10点満点を7回出し、個人総合チャンピオンの金メダルを含め、金3銀1銅1のメダルを手に入れた。当時、最強といわれた旧ソ連チーム(エース:オルガ・コルブト選手)に団体総合で敗れはしたが、互角以上の戦いをした。

 その後、金メダリストとして世界中をまわり、体操外交を繰り広げた。しかし、これは彼女にとって負担が大きすぎ、体操の練習をする時間も奪われ、ルーマニアに外貨を貢ぐために精神的にも肉体的にも極限状態に陥ったのだ。1980年のモスクワ・オリンピックに出場できるかどうかも危ぶまれた彼女だが、練習不足、減量苦、自殺未遂を乗り越え二度目のオリンピックに出場した。結果は個人総合はダビドワ選手に次ぐ2位だったが、金2、銀2のメダルを獲得できたことはすばらしい。

 その後、19歳で引退、コーチとして後輩の指導にあたるようになる。

 コマネチ選手のコーチであるカローリーコーチが1981年アメリカに亡命してから、彼女に対する監視が強化され国外に出ることもできなくなった。社会主義国は、国家の忠実な犬である「秘密警察」で統制されている。このがんじがらめの鎖を断ち切るためには亡命しかなかった。ついに祖国ルーマニアをすて新天地アメリカを目指すことを決意した。1989年11月のことであった。

 

76beammount  「白い妖精」と呼ばれたナディア・コマネチ選手は、東西冷戦末期の世界情勢のなかで、真の自由を求め、本当の自分を探すために、自分なりに考え、決断した結果がアメリカ亡命であったに違いない。

 金メダルを獲得するためにチャウセスクが集めた少女が、強い意志と勇気を持ち、過酷な減量苦や自殺未遂を乗り越え、国家による監視や独裁者の身勝手な欲求を振り払い、強く生きぬいた姿は感動的であり、美しい光を放つことができた。

 鎖を断ち切り、自由を勝ち得たナディア・コマネチは「白い妖精」から「戦う天使」となっていたのだ。

 亡命後も、決して幸せな生活が待っていたわけではなかった。自由の国「アメリカ」に慣れるには時間が必要だった。

 1994年11月、5年ぶりにルーマニアに帰国したコマネチは「祖国を捨てた自分は許されるのか」という不安を抱えてブカレストの空港に着いた。

 そこにはナディア・コマネチを歓迎する多くの人がいた。家族も友人たちも…。彼女の行ったことは間違っていなかったのだ。



 

2008年2月29日 (金)

「栄光への架け橋」冨田洋之選手物語(第2回)

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 第8回:アテネ以後の富田洋之選手

 冨田選手は、アテネ・オリンピックで団体総合の金メダル平行棒の銀メダルを手にした。団体総合を録画したDVDは4年後の今でも見ており、いつ見ても感動する。あのときの日本チームは貫禄があり、他のチームと格が違っていた。解説を担当された小西裕之さんもオリンピックで銅メダルを獲得された名選手だ。日本が優勝したときの小西さんの涙と刈屋アナの「小西さんどうぞ泣いてください」は忘れられない。

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 体操王国「日本」は1960年のローマ・オリンピックから始まった。以後、1978年のストラスブール世界選手権までの10大会連続で団体総合優勝を続けた。

 オリンピックではモントリオール五輪まで5大会連続、世界選手権では1962年のプラハ大会から5大会連続勝ち続けたのである。

 そんな栄光に満ちた日本の体操の歴史を知らない人は案外多い。

 モントリオール五輪以後、アテネまでの28年間日本は五輪で団体総合の金メダルを手にすることはなかった。世界選手権もストラスブール以後なかった。

 アテネの予選は、シドニー五輪・アナハイム世界選手権の覇者中国をおさえて1位の通過、決勝への期待が高まった。

 団体決勝は最初の床で7位のスタートだった。その後、だんだん順位を上げ、最終種目の鉄棒の直前の順位は、ROM・JPN・USAの横一線だった。ご存知のように最後に日本が逆転で28年ぶりの優勝をかざり金メダルを獲得する。

 ここで注目したいのは、最終種目・鉄棒の演技者だ。1番手が米田選手で得点は(9.787)、2番手が鉄棒の世界チャンピオン鹿島選手で(9.825)、最後が冨田洋之選手だった。得点は、最高の(9.850)で2位アメリカに大きな差をつけて優勝することになった。

 冨田選手が実施した放れ技は「コールマン」で前の二人が実施した「コバチ」に1回ひねりを加えた「バーを越えながら行うムーンサルト」であった。

 最終演技者の3人は、マック体操クラブ出身で種目別のメダリストになったという共通点を持っている。特に印象に残っているのは、跳馬や鉄棒ですばらしい着地を見せてくれた冨田選手の演技だ。勝利への執念を奥に秘め「涼しい目」で演技した冨田選手に拍手を惜しまない。

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 アテネの翌年の2005年メルボルン世界選手権では、団体総合は行われなかったが、個人総合で冨田選手が優勝、水鳥選手が準優勝と日本のワンツー・フィニッシュとなり、体操日本を印象づけた大会となった。しかし、米のポール・ハム選手や中国の楊威選手は参加していなかった。

 2006年のオーフス世界選手権では、団体総合で3位、個人総合は楊威選手の優勝で冨田選手は銀メダルだった。

 2007年のシュツットガルト世界選手権では、団体総合で2位、個人総合は楊威選手の優勝で3位に水鳥選手が食い込んだ。冨田選手は、最後の鉄棒の放れ技「コールマン」で落下し4大会連続のメダルは消えた。アテネは良い結果が残せたが、それ以後は中国勢に苦杯をなめている。

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 最近の冨田選手は、鉄棒や鞍馬で落下するなど本調子ではないと聞く。採点法が変わったため、苦しんでいる部分があるのかもしれないが、冨田選手は実力は世界最高レベルだ。

 北京までに調整してくるはずだ。水鳥選手も努力の人、自分に対する厳しさは誰にも負けない。

 怪我で苦しんでいる米田選手、鹿島選手もがんばって一日も早く復帰してほしい。

 日本の新しい力とベテランの力を合わせ団体2連覇をぜひ達成してほしい。

 次回は、歴代の日本代表選手について調べてみたいと思います。

「栄光への架け橋」冨田洋之選手物語(第1回)

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第7回:小学生の頃の冨田洋之選手

 

051125_1  冨田選手は1980年11月21日生まれの蠍座である。現在、27歳である。彼は、大阪の出身で、池谷・西川両選手を出したマック体操クラブに8歳の時に入り、すぐに本部の選手コース生になった。

 冨田選手は、小さいときから体操の才能を自覚していたようで、鉄棒が一番の親友だったようだ。

 体操選手の才能とは、体操が大好きで「鉄棒」で回ったり、前方宙返りや後方宙返りをするとき自分の動きを正確につかめることではないかと思う。 

 私の身近にいる小学生の体操選手も、泳げない・ボールを投げられない・早く走れないなど体操の動きにあまり関係のない運動神経は並以下だが、いったんバーを握って回転を始める全くの別人になる。体操系のセンスは、他のどんな競技よりも立体的でその構造が異なっている。その違いは小学生の頃から顕著である。

 2004年のアテネで種目別のメダルを獲得した3人の選手は皆マック体操クラブの出身で、高校は冨田選手が洛南高校で、米田選手と鹿島選手は清風高校という違いはあるが、大学は3人とも順天堂大学である。

 冨田選手と鹿島選手が同級生で、米田選手より3年後輩になる。この3人の中で早熟の天才は、米田・鹿島両選手だ。それまで無名だった冨田選手が高校総体の個人総合を連覇したとき、この二人の天才に並んだ。

 2003年のアナハイム世界選手権で、日本人初の「鞍馬」の金メダルと「鉄棒」の金メダルを鹿島選手がとり、個人総合では、冨田選手が銅メダルを獲得した。米田選手は、このとき補欠で、この悔しさがその後の全日本やNHK杯の優勝をもたらしたのだ。

 (※ 鹿島選手が、獲得した鞍馬の金メダルは、「体操王国日本」初の快挙であった。何故か鞍馬だけ金メダルがなかったのだ。アテネでは、種目別鞍馬で惜しくも銅メダルだったが、今年こそオリンピックで金メダルを狙ってほしい。「鉄棒」でも美しい演技を披露し金メダルに輝いた。まさにBEAUTIFUL!!鹿島選手である。)

 

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 次回は、アテネ以後の富田洋之選手と日本代表選手について調べてみたいと思います。


2008年2月25日 (月)

「オリンピック史上初の10点満点」:1976年のナディア・コマネチ

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第6回 ナディア・コマネチ:運命の1989年(その1)

 

Untitled_2  彼女が世界的に有名な体操選手になったのは、1976年モントリオール・オリンピックの時である。そのときは彼女はわずか14才でオリンピック史上初の 10点満点を7回出し、個人総合の金メダルを含め、金3銀1銅1のメダルを獲得したのだ。

 このときのルーマニアチームは、テオドラ・ウングレアヌ、マリアナ・コンスタンチン、アンカ・グリゴラス、ガブリエラ・トゥルスカ、ゲオルギータ・ガボーとナディア・コマネチ選手の6名であった。団体総合では、銀メダルを獲得したが、種目別では、ウングレアヌ選手とコマネチ選手の二人がメダルを獲得している。この二人は、仲がよく体操のレベルも非常に高かった。ベラ・カローリーコーチの自慢の教え子でもあった。

 当時、最強といわれた旧ソ連チームは、オリンピック3大会連続出場のリュドミラ・ツリシチェワ選手(世界選手権・オリンピック3大会連続個人総合チャンピオン)、ミュンヘン大会で「ミュンヘンの恋人」と呼ばれ人気No.1だったのオルガ・コルブト選手、個人総合でコマネチ選手に次いで銀メダルを獲得したネリー・キム選手などがいた。

 ルーマニアは、この旧ソ連チームに団体総合で敗れはしたが、互角以上の戦いをした。まさか誰もナディア・コマネチのような選手の登場を予測しなかっただろう。まさに衝撃的デビューといっていい。

 旧ソ連CCCP女子体操チームにとって、まさに青天の霹靂だった。まさか14才の少女がこのオリンピックで10点満点を連発しようなどとは、全く思いもよらなかっただろう。

 コルブト選手は、コマネチ選手に対する大歓声を聞きながら演技を行わなければならなかった。憔悴した表情で平均台の演技を待っていたコルブト選手の姿を忘れることができない。結局、彼女がモントリオールで獲得できたメダルは、団体総合の金と平均台の銀メダルの2個だけだった。前回のミュンヘン大会のとき観衆の声援を一身に集めた「ミュンヘンの恋人」がルーマニアの「白い妖精」に完膚無きまでに叩きのめされたのだ。あまりにも無残な現実であった。

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 また、個人総合の表彰台でまさかの3位で銅メダルとなったツリシチェワ選手は目を真っ赤にしながらコマネチ選手の横に立っていた。しかし、彼女は、コルブト選手に比べて最後まで健闘している。種目別の床と跳馬で同じCCCP女子体操チームのメンバーのネリー・キム選手と金メダル争いをしたが、新鋭のキム選手にわずかに及ばず銀メダル2個を獲得している。あのときの状況の中では、十分価値ある銀メダルではなかろうか。

 コマネチ選手の陰に隠れて、ネリー・キム選手はあまり目立たなかったが、種目別の床と跳馬で金メダル、個人総合では、銀メダルを獲得している。団体総合優勝のメダルも含めると金3、銀1で、コマネチ選手に十分比肩できる力を持っていた。また、彼女もパーフェクト10を出しており、コマネチ選手だけが独占していたわけではない。彼女も十分輝いていたのだ。

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 モントリオール・オリンピックのチャンピオンになってから、コマネチ選手の人生が急変した。当時のルーマニアは、チャウセスク大統領の独裁国家で国民に自由などなかった。

 コマネチ選手が、金メダルを手にすることができたのも、それがチャウセスク大統領が最もほしかったものだったからだ。

 チャウセスクは、カローリーコーチ夫妻に命じ、国内で26名の体操の才能がある幼い少女たちを集めさせた。コマネチ選手もその一人で、そのとき6才だった。

 実は、体操王国ルーマニアの歴史はこのときから始まったといっていい。ベラ・カローリーコーチとナディア・コマネチの出会いがきっかけとなったのだ。


 コマネチ選手は、金メダルを取るために徹底的に鍛えられた。自由な国では、考えられないハードなスケジュールと厳しい食事制限など生活面の完全管理。練習に明け暮れる毎日だった。

 彼女自身も「私には、体操しかない」しかも「完全な演技でなければ納得できない」といっているくらい完全主義者であった。外見の可愛らしさとは裏腹に、内面は「自分に対する厳しさ」で鬼のようであったに違いない。そうでなければ、モントリオールのパーフェクト10はなかったし、個人総合の金メダルも獲得できなかったであろう。


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 1981年、ベラ・カローリーコーチは、アメリカに亡命した。コマネチ選手に金メダル外交を強いる独裁者に、彼女を元の環境に戻ししっかり練習させないとだめになってしまうと進言した。

 そのためルーマニアの秘密警察に睨まれるようになったカローリーコーチはこの国にいても未来はないと考えたのだ。後に残されたコマネチ選手は、心に大きな穴がぽっかりと空いたような気持ちだったに違いない。

 彼が育て上げたルーマニアの体操とコマネチ選手。時を同じくして、コマネチ選手は引退した。コマネチ選手は、「彼なしでいったい何ができるの」と言いたかっただろう。

 冒頭のモノクロ写真に写っている14才の少女は、モントリオールのチャンピオン:ナディア・コマネチ選手である。あどけない表情が残る可愛らしい女の子にしか見えない。

 そのすぐ後ろに、傲然と座っている男がいる。ルーマニアの独裁者、ニコラエ・チャウセスクである。この男は、どれだけの苦しみをコマネチ選手に与えたことであろう。国民もどれだけ苦しめられたかは、計り知れないものがある。

 

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 次回は、1989年のナディア・コマネチ選手について調べてみたいと思います。

2008年2月22日 (金)

9月生まれの乙女座:ステリアナ・ニストル選手(ルーマニア)

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 第5回:9月生まれの乙女座の体操選手

 ステリアナ・ニストル選手は、1989年(平成元年)の9月15日生まれの18才。2004年のヨーロッパ選手権のジュニアで個人総合のチャンピオン。床でも金メダルだったと思います。

 昨年のシュツットガルト世界選手権でショーン・ジョンソン選手についで個人総合の銀メダリストになりました。最近のルーマニアは、段違い平行棒(UB)が弱点で、アテネの時はソフロニエ選手の演技だけ安心してみることができました。ポノール選手も苦手なUBのせいで個人総合に進めなかったわけです。しかし、ニストル選手のUBは結構良いと思います。もう少し笑顔が出れば最高ですね。 

http://www.youtube.com/watch?v=GoxXWQr1DXU

 この動画は、2007年シュツットガルト世界選手権でのニストル選手の段違い平行棒の演技です。ダイナミックで好感の持てる良い演技でした。

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 9月といえば干支で申月と酉月になります。体操選手では、申と酉の演技は、若干違いますが正確でダイナミックなところは似ています。アンナ・パブロワ選手(申月)やアンドレア・ラドゥカン選手(酉月)の違いともいえるでしょう。エレーナ・ザモロドチコワ選手ナタリア・ラシェノワ選手ナタリア・シロババ選手なども9月生まれの酉月です。

 しかし、コマネチ選手やドブレ選手は11月生まれの蠍座です。また、コルブト選手やシリバシュ選手、チャスラフスカ選手などは5月生まれの牡牛座です。この二つの星座は、すばらしい選手を出していると思います。機会があれば、体操選手と星座や干支の関係を独断と偏見で分析してみたいと思っています。

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 次回は、いよいよナディア・コマネチ選手について調べていきます。これは、一回では終わらないでしょう。一つのテーマとして追求してみます。

 また、男子の体操選手は、体操王国日本の歴代金メダリストを調べていきます。並行して鉄棒のペガン選手や鞍馬のウルジカ選手など名選手も調べていきます。

 間違いとか知らないことが多いので、教えてください。よろしくお願いします。

2008年2月19日 (火)

新採点法とオリンピック

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第4回:体操の技につて(新採点法

 

58jdyst4  オリンピックでいえばアテネまで10点満点の採点で競技を行っていました。

 コマネチ選手オメリヤンチク選手などの満点の演技は伝説的なものになっていますが、アテネでは誰も10点満点など出すことは不可能でした。

 ロサンゼルスで森末選手が鉄棒の演技で出した10点満点は今の基準でいえばかなり低い点数になるはずです。昔の選手はレベルが低かったなどといっているのではなく、その当時としては最高水準の演技だったわけで選手の価値が損なわれるわけでは決してありません。

 それは、採点基準が厳しくなっているためで、難度の高い技を入れないとスタートバリューが低くなり高得点を出すことはできなくなってきたのです。

 今年の北京がはじめての新採点法によるオリンピックになります。詳しいことはよくわからないのですが、審判がA審判とB審判にわかれ、それぞれA得点とB得点を出し、その合計得点で採点します。A得点は、技の難度や連続性に応じて点数を加算していきます。B得点は、10点満点からミスに対する減点で採点します。その合計:A+B=15.575などというように評価されます。

 女子の段違い平行棒で、シュタルダーという技があります。小学生でできる選手は少なく、中学の体操部でも習得させるのに時間がかかるそうです。シュタルダーから倒立姿勢で1回ひねるのはD難度(?)になるそうですが、なれないとひねりを入れるとき力が抜けてうまくいかないそうです。

 体操選手が普通にやっているように見えるシュタルダーからトカチェフに移行する技がいかに難しいものかわかります。この技は選手の名をとって「リチナ」と呼ばれているようです。

http://www.youtube.com/watch.php?v=iTd6Q6hkx2s

 この動画は、世界選手権でのドブレ選手の段違い平行棒の演技です。シュタルダーからギンガーに移行する技を入れています。

 次回は、ステリアナ・ニストル選手(ルーマニア)について調べていきます。

2008年2月15日 (金)

「頂点から落ちて得た幸せ」アウレリア・ドブレ選手

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 第3回:アウレリア・ドブレ選手(ルーマニア)

 アウレリア・ドブレ選手は、1987年のロッテルダム世界選手権で体操王国ルーマニア初の個人総合チャンピオンになった。

 彼女が14才の時であった。コマネチ選手でも世界選手権のチャンピオンになれなかったのにである。

 その年のヨーロッパ選手権に出場することはできなかったが、チャンスに恵まれ世界選手権には出場することができた。そのころのルーマニアは、エカテリーナ・サボー選手や若手No.1のダニエラ・シリバシュ選手などが注目されており、とりあえず経験のために出場させておこうというのが真意であった。しかし、シリバシュ選手や旧ソ連のシュシュノワ選手をかわして個人総合で優勝してしまったのだ。種目別でも、平均台金メダル、床・跳馬は銅メダルを獲得している。ドブレ選手の演技は、技の難度も高かったが、何より美しかった。

 翌年のソウルオリンピックでは当然優勝候補のひとりだったが、右膝の故障のため目立った活躍はできなかった。それ以来彼女はチャンピオンになることはなかった。 

 しかし、彼女が本当の幸せをつかんだのはそれからであった。アメリカに渡り、恋をし、結婚し、子供たちに恵まれた。コマネチ選手にあこがれて始めた体操だったが、当時の体操選手たちはドブレ選手を目標にしていたに違いない。

   http://www.youtube.com/watch.php?v=unrG50IxuPg

 この動画は、ソウルオリンピックの床の演技です。

 右膝の故障があるとは思えない演技です。確かに難度を落とした堅実な演技内容ですが、それはそれで彼女らしい美しい演技でした。世界選手権の演技よりある意味好きです。 

 頂点を極めた選手が、普通の人として幸せな生活を送っている

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 次回は、体操の技について調べていきます。

2008年2月11日 (月)

オクサナ・オメリヤンチク選手

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huntetsuさんの撮られた写真です。

 
 第2回:オクサナ・オメリヤンチク選手(旧ソ連)

 Omelianchikokkick772 1985年のモントリオール世界選手権個人総合チャンピオンで、床の演技で10点満点を出した選手です。

 しかし、旧ソ連の選手の層は厚く88年のソウル・オリンピックには出場できませんでした。

 このオリンピックは、世界選手権でオメリヤンチク選手と同点優勝したシュシュノワ選手とルーマニアのシリバシュ選手の一騎打ちでした。私見では、オメリヤンチク選手を出してほしかったと思っています。

 彼女ははじめはフィギアスケートの選手だったようですが、体操の才能を見いだされてウクライナの首都キエフにある体操の学校に入りました。

   http://www.youtube.com/watch.php?v=CizMLai88_M

 この動画は、世界選手権で満点を出した床の演技です。

 この床の対角線を往復するタンブリングの連続技は、繊細で力強く美しい。歴史に残る演技といっても過言ではありません。バレエの動きを詩的に表現し、フロア全体を妖精のようにジャンプしターンしたのです。非常に愛らしく人を惹きつけてやまない演技だと思います。

 Omeriyantiku1 平均台の演技です。指先までまっすぐ伸びた高いジャンプです。これくらい高く飛べたら気持ちいいでしょうね。

 因みにオメリヤンチク選手の名前のついたオメリヤンチク倒立などの平均台の技があります。

 テレビで解説者(北村彩子さん)がアンナ・パブロワ選手の実施した、「平均台の技」の解説で「二分の一オメリヤンチクですね。」だの「オノディ少しふらつきましたが大丈夫です。」などと言われていたのを聞いて、最初「はぁ!なんのこっちゃ???」と理解できませんでした。
 
 有名なナタリア・ユールチェンコ選手の名前のついた跳馬の技で「ユールチェンコとび」という技があります。ロンダートからロイター板で反転して背面から着手し、そのあと体をひねって着地する技です。最近、やっと「ユールチェンコとび2回ひねり」などとわかるようになりました…。(最初は、ロンダートの意味もわからなかったくらいですから、少しは成長しました。)


次回は、アウレリア・ドブレ選手(ルーマニア)です。